陸の孤島

「さっき通ったあの吊り橋が崩れたら、ここは陸の孤島になるね」
ペンションの玄関ホールで、彼はそう言って笑った。
でも、それが現実のことになるなんて……。

 玄関ホールで、オーナーの天樹さんご夫妻が迎えてくれた。
 小さなペンションで、狭い玄関ホールには私たちと
オーナーのご夫妻だけ……あれ?
 隅の椅子に座って、何か本を読んでる男性がいる。
どうやら、マンガらしい。

 カウンターで宿泊者名簿のノートに名前を書いていた彼が、
その男性に如才なく声をかける。
「初めまして。私は佐藤といいます。彼女は山口」
「……初めまして。ケイです」
ケイ? 慶かな、それとも恵かな。男性は、それっきり
何もしゃべらず、またマンガを読み始めた。
 ケイさん、私たちに興味ないみたい。ま、いいか。

 私は、彼を二階の部屋へ誘った。窓からの眺めが
本当に素晴らしいのだ。見渡す限り山の緑で、日が暮れるまで
様々な色が目に飛び込んでくる。太陽の黄色、オレンジ。
白い雲。青から濃紺、夜の漆黒へと変わっていく空。
 彼は、この景色に声を上げて驚いた。……私は、
彼が驚くこの表情を見たかったんだ。本当に素敵な顔だな。


 夕食は、みんなと一緒に玄関ホールの
小さいテーブルでとった。彼は、
「あんな美しい景色は初めてみた」と感激している。
 驚いてもらいたくて、何も説明しないで彼に
吊り橋の手前まで運転してもらったんだけど、正解だった。
私はそう言って笑った。

 柔らかな名雰囲気の中、あれこれ会話が続く。
 ケイさんは、マンガ家なんですと自己紹介した。
「怖い編集者から逃げるために、
このペンションをたびたび利用させてもらってます。
携帯電話は圏外だから静かだし」
へえ、そんな理由でここにいるんだ。
山の景色が気に入って時々来ている私とは、全然違うな。
そういえばこの人、ずっとマンガを読んでるし。

「こんな山の中でも、けっこうお客さんが集まるんですよ」
オーナーの奥さんは陽気に笑った。「ワケありの方が
多いですね。だから、宿泊者名簿も偽名やイニシャルしか
書かない方がいます」
「偽名、ですか?」私の隣に座る彼が質問した。
「はい。『鈴木一郎』とか」奥さんがまた笑った。
 この人、けっこう口が軽いんだな。そう思った。



 翌日の朝、私は男性の悲鳴で目が覚めた。
彼と部屋を飛び出し、玄関ホールへ向かう。
 天樹さんが、震えながら立ちつくしていた。
 足下には、血だまり。オーナーの奥さんが倒れている。

 私の隣で、彼が叫んだ「救急車を呼ばなきゃ!」
天樹さんが私たちを見た。目がうつろだ。
「私は何もしていない」
「そんなことはどうでもいいから、まず連絡を」
彼は電話に飛びついた。でも、受話器を掴んだまま
動かなくなってしまった。「……通じない」

 遅れてやってきたケイさんに事情を説明すると、
別人のように表情が引き締まった。
「でしたら、街へ直接出向くしかなさそうですね」
ケイさんが、玄関ドアを開けた。
 でも、ドアノブを掴んだまま動かない。
「……吊り橋が崩れてる」

 ケイさんが、天樹さんに詰め寄った。
「嫌な予感がする。ここからすぐに逃げるべきだ」
「吊り橋が崩れてしまったのなら、無理です。
街への道は他にありません」
「……そうだったのか」
私たちはドアから外に出る。崩れた吊り橋が見えた。



 彼が、私の肩に手を回した。
「大丈夫、心配しないで。君は安全だ。
それに、誰があんなことをしたのか、
もうわかっている」

 私は、彼を見た。こんな時なのに、
素敵な顔だと思った。

 玄関ホールに戻るのが怖くて、私たちは
庭のベンチに腰かけた。
「もうわかってるの? 説明して。お願い」
「私も是非知りたい。妻を殺したのは誰か。
もしかして……」
天樹さんは、ケイさんを見た。

 ケイさんは、右手を挙げた。
「まず、私の推理を発表していいですか?」
「……え?」
「佐藤さんが何か思いつかれたように、
私もひとつ、答えを持っているんです。
まあ、前座と考えて下さい。トリは佐藤さんです。
佐藤さんの推理を聞くのは後にしましょう」


 彼が笑った。
「じゃあ、まずあなたの推理を聞きましょう」
「私はあなたを疑っています。佐藤さん」

 私の恋人が犯人? 殺人者?
彼の顔を見た。きれいな顔だ。芸能人のような。

 ケイさんが語りはじめた。
「佐藤さん。あなた、夕食の時
『あんな美しい景色は初めてみた』と言いましたね?
 でも、ここに到着した時
『あの吊り橋が崩れたら、ここは陸の孤島になる』と
言うのを聞きましたよ。
……吊り橋が崩れたらここは陸の孤島になる、
そのことをなぜ知っているんですか?
 あなたは、嘘をついている。
ここからの景色を初めて見て感激したなんて、嘘だ。
ここに来たこと、あるでしょう?
天樹さん、彼の顔に見覚えはありますか?」
「いや、ない……」

 私は、大声で訴えた。
「彼が殺人者だなんて信じられません。吊り橋の話は、
きっと私が彼に教えたんです」
ケイさんは平静だった「そうですか。それなら、
私の推理が間違いということですね。
 じゃあ、どうぞ」
「は?」
「次は、佐藤さんが推理を披露する番ですよ。
でも、彼氏が出す結論は予想できますね」

 彼はベンチから立ち上がり、強い口調で語った。
 でも、彼の言葉は全く耳に入らなかった。
 そして、ケイさんが笑うのを見た。
「ああやっぱり、私を疑ってるんですね。
……天樹さん」
「はい?」
「街への連絡手段が見つかるまで、
私を見張っていて下さい。佐藤さんによると、
私は危険な殺人者だそうです」
「……」
「お一人で監視するのが不安でしたら、
山口さんに手伝ってもらうのもいいでしょう。
でも、佐藤さんはダメです。
私に近寄らないで下さい」

 私は、彼を見た。きれいな顔。芸能人のような。
 ……でも、ふと気がついた。きれいすぎる。
 不自然だ。この顔はたぶん、整形手術で作ったんだ。

 彼が、呟いた。
「あんた、何者なんだ」
「え? ……いやあ、ただのマンガ家ですよ」
「どんなマンガを手がけてるんだ?」
「それを聞きますか。恥ずかしいなあ。
 ミステリーマンガですよ。
 名探偵が事件の謎を解くとか、そんな感じです」

 私は立ち上がり、玄関ホールへ駆け込んだ。
 カウンターの上にある宿泊者名簿のノートを開く。
 ケイさんの名前を知りたかったのだ。
 でも、私たちの名前の上の欄には、名前などなかった。
 イニシャルだろうか、アルファベットが書いてあるだけだった。



   K



 この事件があって以来、私は書店へ行くたび、
Kのイニシャルをマンガの棚で探してしまう。
 イニシャルKの人が書いたミステリーマンガを探してしまう……。